昨年の5月末に宮城県気仙沼市の階上中学校の避難所(300人位)で、避難所運営にボランティアの一員として携わってた者です。
被災地や避難所の状況については、テレビや新聞等で一応は頭に入っていたつもりでしたが、現実を目の当たりにすると言葉を失ってしまいました。避難所では、体育館の中で被災者と共に寝起きをし、地元ボランティアの方々と共に避難者の食事関係(お湯沸かしや配膳準備、片付け等)や物資の仕分け等と、避難者の方々の話相手になったり、遺物品の手洗い等を手伝ってまいりました。
何人かの方々とお話する機会があり、このような事を言われました。「みんな、自分の恐ろしい体験を人に話すことはないよ。だって、みんな同じような怖い目にあっているんだから」って。
また、ご年配の女性の方は、日が経つにつれて「自分1人が助かって良かったのだろうか。これから生きていくにも人様に迷惑をかけるだろうし。もっと若い人たちが助かるべきなのではと」苦しい胸のうちをはなしてくださいました。
私は、「そんなことないですよ。みんなの為にこれから生きていってもらわないと」という事を言うのが精一杯でした。
夜は子供たちとトランプ等をやり、少しでも仲間に入れるように心がけました。
ボランティアの最後の朝、次のボランティアの人との引継ぎを終え、お近くなった方々との別れは非常に胸が苦しく、「これからまだまだ続くであろう避難所生活」と思うと涙がこみ上げ、また、何人かの方々からは「遠くから来てもらいありがとう」って声をかけてもらったり、拍手まで頂いたりして、50を過ぎた私でも「ここに来て、ちょっとは役にたったんだ。来て良かった」と思いました。
最後には、ひとりのご年配の方が手を握り締め「私、鹿児島の歌知っているよ」って言われ、懸命に歌ってもらいました。本当に涙が止まりませんでした。

そして、今はその時に知り合った数人のご家族と連絡を取り合い、仮説住宅での生活状況を教えてもらい、必要な物を送ったり、たまには鹿児島の旬の物を送ったりして交流(支援)をしている状況です。
自分ひとりで出来ることはたいした事は出来ないですが、ひとりでも少しでもいいから気持ちを前向きに持ち、歩いていっていただきたいと、遠く離れた鹿児島からでも絆が深められる事が出来ると思い、今現在、日々をすごしています。
これからも応援し続けていきたいと思っています。
今回、このような短い期間で体験できた事は、自分にとってはかけがけのないものになりましたし、機会を作り、必ず気仙沼市を訪れたいと思いました。
「生ぎる気仙沼 生ぎる東北」(いちき串木野市 52歳 男性)
震災から1年11日でちょうど1年経過しました。元気であれば今でもすぐにボランティアとしてかけつけ、救いの手を差しのべたい気持ちです。でも今は何かお手伝いすることはないだろうかと思い、救いの手をさしのべる人に援助する日々です。でも現地の人々は満足してはいません。生まれたこの土地で住みたい。この地で結婚し、子供と共に住みたいと言う気持ちが多いことに気づく、しかし行政は予算組んでこれもあれもやりますと言いながら何一つできていない。言葉だけの現実です。
そこで私は住宅1つたてるにも洋服にデザインがあるように、各地域の建築専門の人やデザイナーの方で、モデル都市の設計をお願いしたい。もちろん住民の方々も参加し、生活一貫型の住宅で、コンペでもやって決めてもいい、そこには職場や学校、病院、ショッピングセンターも一緒にあるものです。そこに住宅があると家族共々安心してすめるようになる。
現地の人は今も小工場からいっしょだった人と離れたくない。一生この地で住んで生活したいが本音です。
明日への幸せをかみしめ生活したい。私にできることは、東北でできた日本酒を飲み、少しでも復興の手助けになることを願うばかりです。以前はなーんだと思っていた東北の酒、今思うと少しでも小さな力ずけになればと思っています。(鹿児島市 60歳 男性)
福島が里です 果物生産で生計を立てています。一年間 まともな生活できたのか心配です。あの時は水・ラーメン・缶詰めいろいろ送りました。できる限りのことはしたつもりです。最近は電話・メール・携帯電話がほとんどですが年老いた母は心配かけまいと大丈夫だよ〜元気だよって言うだけです。2月に帰って見て来ましたがニュースには出て来ない大変な事がまだまだ沢山ありました。風評被害にはかなり泣かされたようです。まだまだこれからが大変だと思います 実家は 避難区域でもなく 中途半端な場所なので援助の手も廻らず、風評被害はまともに受け全部自分でやりくりしないとならないんです。義援金も隣の地区で切られたり…。86歳の母が心配です。今朝も電話したら3月なのに雪が降ってるって早く暖かくなってほしいです。(西之表市 女性)
私は広島県在住の百貨店勤めをしております。
2時46分黙祷、営業中接客の最中お客様と館内皆が同じ気持ちに願いになった一時でした。なかなか口には出せない思いが今日、行動で日本中が同じ気持ちにになった瞬間、私は全く掛け離れた場所に暮らし、被害はなかったものの同じ人間、命を持っている限り立場は一緒だと感じ、命の大切さをいままで以上に感じました。人の力、思い、行動一つでここまで大きな力を感じました。
震災から一年、自立できている環境とまだ何もすすんでいない環境とテレビの映像を見ると胸が張り裂けそうです。住んでいた町が、災害で消えてしまって、帰りたいのに帰れない気持ちに涙が、溢れてしまいました。
でも、みんなの熱意、勇気、地元の人達のこれからの新しい街づくりにもっともっと全国が注目して、一人一人、また一人と手を繋ぐ絆が続いて欲しいです。
忘れる事は出来ない 3月1 1日東日本大震災。鹿児島では九州新幹線全線開通。川内の友人社長さんが「川内駅前で竹灯籠を灯すからかせいをたのむ」との連絡があり、川内駅に向かってる途中携帯電話がかかって来ました。会社からでした。「東北に被災地に行ってくれ」「えーウソ、冗談はやめて」「マジやど」「はい 行きます」「準備をしてください。2、3日中に出発日・行き先地が分かると思います」とのことでした。新幹線開通祝いが終わり、帰りに隼人の24時間大型スーパーで買い物をして自宅に着いた。夜中の3時、夜が明け娘に「震災のところに行ってくるわ」と電話をしたらすぐ帰ってきました。「東北どこにの」「まだわからん」「頑張ってね」「買い物に行くよ」娘が色々衣類をそろえてくれました。しばらく会えないからと夕食までごちそうになりました。1週間してから延期。高速道路・国道・一般道路が陥没、ヒワレや車トラックの渋滞で進めないとの事でした。4月になって4月6日ライトバン2台、トラっク1台6人で宮城県石巻へ向けて出発。日本海側新潟経由のルートで宮城県入り。7日の夜遅くなって宿に着きました。地元の人が道路にたくさんの人がいました。「地震だよ」まだ車の中でわからなかった。そしたら携帯電話がいつもと違う着信音。ドコモから地震のお知らせでした。地震があったら教えてくれるみたいです。宿の回り休電。懐中電灯で部屋で風呂はいって、ビール飲んで休む。4月8日宿の鳴子温泉から石巻まで2時間道路はでこぼこが多く家が傾いたり全壊の家がありました。
石巻市釜谷地区 道の駅9時過ぎ九州国土交通省建設機械の現場担当者と打ち合わせを行い、現場へ。北上川と富士川との間の耕作地で震災による地盤沈下のため津波の残水があり、ポンプ1台1分間に7、5トンの排水。ポンプ4台・出力100%で排水活動を行いました。現場は小学生中学生の犠牲者が多かった大川小・中学校の近くでした。朝 昼夕方夫婦・夫婦連れの人・おじいちゃんおばちゃん・たくさんの人が作業現場を通られるたびに私たちに「頑張って下さい。遠いところから有り難う。ご苦労様」と声をかけて下さいました。「有り難うございます」としか返せなかった。こちらからどう言う風に声をかけたらいいかからない、何かこみあげてきて車の中で涙がしばらくとまらなかった。
残水の水害が下がり地肌が見えてきたら、自衛隊・消防の数十人横一例で2メートルぐらいの棒で泥をつつき行方不明の人捜し始めた。なかなか見つからない。2日目に地元消防団員が子供1人見つける。若い夫婦の奥さんが 私たちのところにこられて 涙を流し有り難うございました。私たち言葉が出ず涙がでて頭を下げた。つらい、悔しい何も言えなかた。そして排水作業完了。 4月8日〜15日、8日間かけて、石巻市釜谷地区の排水を終了させ、次の派遣先準備のため、緊急内水対策車の点検整備で2日間待機しました。点検整備の終了後、次の派遣先が岩手県陸前高田市小友地区に決まる。4月18日午前8時30分カーナビを使い陸前高田市役所を目指して移動、現地に近づくにつれ驚きの連続。津波で市街地が原形をとどめておらず、道路も破壊され、周囲わがれきの山、市役所もめちゃくちゃでした。活動場所近くの小友駐在を所を目指し、現地に到着後、自衛隊現地担当者と打ち合わせ後、緊急内水対策車の設置箇所を決定し、水が多量に残っている箇所の中央部に決まる ポンプ設置箇所から排水箇所まで約130mと距離がありポンプ4台の内1台を使い排水を開始しました。水害が下がた所から自衛隊が建設機械バックホウを使い、がれきを少しずつ どかしながら行方不明者捜索始める。朝4時に夜が明け5時ごろから朝めし、その時間になると毎日橋の上かからカメラで風景を写すおじさん、知り合いになり話しをするようになる。そして4月18日から28の11日間の陸前高田市小友地区の排水作業完了しました。4月6日鹿児島を出発し8日から始めた私たちの災害支援活動は27日まで20日間の作業終了し、4月28日に陸前高田市を出発、鹿児島へ30日に会社に着く。帰る際に持っていた水、食料を避難所に差し上げました。被災地の1日も早い復興を願っています。機会があれば石巻、陸前高田に行っておじさんに会いたいです。やっぺす石巻、がんばれ東北。(鹿屋市 男性)
明日で、東日本大震災から一年ですね。
今も震災のニュースや番組を見ると、辛く、涙がでたりしますが、この気持ちを忘れないようにしたいと思います。
そして、早く被災された方に、穏やかな暮らしが出来るよう、願っています。
明日、11日は、東日本大震災から一年ですね…。
あの日、テレビで、見た恐怖感や 悲しみを思い出してしまいますが…改めて、生きていく意味!
また、生かしてもらっている意味!を考えます。
日常の有り難さに感謝し、私達にできる節電に心がける事や募金など続けて行きます。
そして、震災の影響で、身近に情報を得る事のできる、ラジオって見直されましたよね。
色んな物が、地デジに変わりつつある世の中ですが、アナログの良さ!! 残していきたいです。
ラジオから聴こえてくる歌に励まされる事もありますね。
僕はいま大学生でサーフィンをしています。東北大震災ではたくさんの方々が海に帰っていきました。
そのなかにはもちろん僕らと同じサーファーも含まれています。
だけどこんな出来事も、人によっては過去の出来事になりつつあります。この出来事を忘れちゃいけません。過去の事にしてはいけません。たくさんの命が海に帰っていきました。
僕たちはこれを、そういう人たちに発信しなければいけません。気づいてもらわなければなりません。いまも支援は続いていること、一回の募金が大きな一歩になること。『なにもしない善より、する偽善。』
うまく伝えるのは難しいですが、思いを送らせていただきます。
私は,東日本大震災で大事な親友を亡くしました。
すごく悲しみました
そこで私には何が出来るか考えました。
そしたら,親友の分まで生きるという答えにたどり着きました
これから私は親友の為に生きたいです
明後日で東日本大震災から1年ですね。
この一年は本当に考えさせられる年でした。
昨年の3月11日、テレビから流れる映像が今でもはっきりと覚えています。
自然災害の恐ろしさを改めて実感しました。
でも、私たちはその自然から様々な恩恵を受けているのも事実です。
自然と上手に仲良く付き合っていかないといけませんよね。
被害に遭われた方のご冥福をお祈りしつつ、生きている私たちは今を感謝して生きていこうと思います。
こんにちは東日本の震災から一年なりますが遺族や被災された方々を思うたび家族で一緒にいることの幸せをつくづくかんじた一年でした 笑うこと食べること生きる大切さを学びました。
今、自分のブログを使って3月11日に歩きましょうと呼びかけをしています。
自宅から避難所まででもいいし、会社から自宅まででもいいから、とにかく歩いてその距離を実感しましょう。
車に頼らず、自分の足で逃げるのが一番だということは、昨年散々放送された映像から明らかです。
実際に歩くことによって自分の決めたルートの問題点もわかりますし、持ち出す荷物の内容についても再検討することができます。
それらを家族で話し合ういい機会だと思います。
私は歩きながら、災害が起きたとき、ただ避難するだけでなく、自分になにができるのか、なにをすべきなのかを改めて考えたいと思っています。
東日本大震災からもうすぐ一年が経とうとしています。地震と津波が東北沿岸の街を飲み込む様子や、原発事故の深刻な状況の報道を見ていて、大きな無力感に打ちのめされました。被災地から離れている鹿児島で自分に何が出来るのかと考えたら、出来る範囲で募金やチャリティー活動に参加する事、そして、この震災を忘れずに、次の世代に伝えて行く事が重要と考えました。この震災から、本当の意味で復興するにはかなりの時間がかかるでしょう。だからこの事を、出来るだけ長く続けていく事が大事だと考えています。
僕は4月から自衛官として働くことになりました。元々公務員を目指し頑張っていたのですが体力など自信がなく4月からとても不安でどうしようかとても悩んでいましたが、震災から一年、まだまだ助けを必要としている方がたくさんいることを知り自分に何ができるかわかりませんが自衛官になろうと決意いたしました。押し潰されそうな不安でいっぱいですが少しでも助けを求める人々の力になれるように日々訓練に精進していきたいです。1日でも早い復興を願っています。
震災後、義援金がなかなか被災者の方々に届かないというニュースが流れ、もどかしい思いをしていました。その後どうなったのか報道から伝わって来ません。お調べ頂き放送して頂けますようお願い申し上げます。
皆さん!東日本大震災から1年たったんですね!去年の3月11日に東北で大きな地震が起きたのを今でも覚えています。僕は、生まれてから1回も大きな地震を経験したことがないです。僕は、東北出身でもないので震災を東北の方で受けた方々には、今でも切ないと思っています。自分でも東北に足を運んで何かしてあげたいのですが、出来ません!震災を受けた方々は、あまり深く考えられないで下さいね…まるでテレビで見た震災の映像は、嘘か本当の様な映像でした。震災で亡くなられた方々は、ご冥福をお祈り致します!早く東北が普通の町に戻れるように祈っています!1日も早い復興を心よりお祈り致します!
東北地方の大震災が起こって、今、僕達私達に深い傷跡を残しました。あの映像を見るたびに悲しくなり涙が出ます。震災で、亡くなられた方行方不明になられた方々の為にも1日も早く復興して、今日よりも明日、去年より今年が良い日にして行って欲しいです。遠い鹿児島の枕崎市の僕に何も出来ないですが、東北地方の方々の復興復旧できる事を祈っております。(男性 枕崎市)
あれから一年が来ますね。未曽有の大災害でした。 鹿児島的には新燃岳の噴火から始まり、あれが、あの大震災のプロローグの始まりだったんでしょうかね。 最近は連動型の地震が懸念されてますが、災害はある日!突然やって来ます!日頃からの個々の備え!準備!心構え!が必要不可欠です! 東日本の皆様に一言です!終戦戦後の日本の立て直しを一生懸命頑張ってやって来たと思います!あの思いがあれば!明るい未来も必ずやって来ると思います!日本人個々心の絆の想いを忘れないで下さい!振り向けば!みんながいます!独りじゃあないです!!頑張れ日本。頑張れ東日本。
奄美大島の南の加計呂麻島の俵中学校です。
僕たち俵中学校3年生5人が中心となって、古仁屋の海の駅でフリーマーケットを開催する事になりました。
社会の授業で地域おこしについて学んだこともあり、そして卒業後には僕たちはバラバラになってしまうので最後に力をあわせて頑張ります。
1・2年生も手伝ってくれます。
出店してくださる方の出店料、自分たちが集落を回りみなさまから寄付でいただいた品物の売上を義援金として被災地に送りたいと思います。
3月11日
忘れもしないあの日に、テレビを見て感じたこと...みんなそれぞれ違ったけど、11月に加計呂麻島は豪雨災害にあい、人の温かさやモノの有り難さを肌で感じ取り、みんなで考え直すことができました。13人力を合わせて、たくさんのありがとうを少しだけど形にしてみなさんに届けます。当たり前が当たり前でなくなったときにやっと気づけた感謝の気持ち。
どんなに小さくても自分たちの元にしっかりと送られてきた元気と勇気の塊を今度は感謝の塊にしてみなさんに届けます。
私達は、鹿児島に、住んでいるので、今は何の心配も無く生活していますが、いつも、震災に会われた方々のことを、案じております。一日も早く、安息の日々が訪れますよう、お祈りいたしております。当たり前は、一つもありません。感謝の日暮らしをしていこうと、思います。日々感謝です。(女性 鹿児島市)
私の養父が福島県の浪江町出身の為、以前、何度も浪江町に行きました。
東日本大震災後の映像を見て、変わり果てた光景に心痛みます。叔母も神奈川県川崎市に避難しています。
TVニュースで除洗の映像をよく見ます。けど、何か無秩序に流していて、放射性物質をただ撒き散らしているだけにしか見えません。
計画的に一方方向に流して、最後には回収して、中間貯蔵施設に入れなければ、撒き散らされ、風で飛散するだけだと思います。
彼等、住民の事を考えて欲しいと思います。
東日本大震災から一年…
地震が起きたときは外出していて 津波の第一報の映像は 携帯のワンセグで見ました。小さい画面からでも 大変なことになってることが 伝わってきました。この地震津波で 福島の叔父さんを亡くしました。叔父さんはすぐに見つかりましたが 今でも行方不明の方がいらっしゃることが 震災の大きさを物語っていると思います。一日も早く 待ってる家族の元に帰れることを 祈るばかりです(霧島市)
私たちにとっても他人事ではないことです。 どうしたら たくさんの 命が 守れるのか…一日考えて 過ごすようにしたいです。
もうすぐ震災から1年たつんですね… 鹿児島に住んでるいるので、被災地の手伝いをしたいと思っても行く事は難しく、被災地の物を食べたりして応援しよう!と思っています。私も8、6水害で全てを失いました 写真も何もかも…。でも、家族を持ちまた一枚ずつ写真を増やし普通に過ごせる事がいちばん幸せなんだと思えるようになりました。被災地の方々にも早く普通に過ごせる日が来る.事を願っています。 (30代 女性 霧島市)
震災から一年。震災直後から一年間ずっとずっと活動し続けている方々がいらっしゃいます。先日、ニューズナウにとりあげられた串木野の橋之口さん率いる め組JAPANかごしまチーム、放射能から逃れようと母子で鹿児島へ避難されてくる方々のサポートをしている ママと子どもを放射能から守る会かごしま など多くの方々が仕事や子育てしながら活動されています。 自分の身近にいる支援活動をしている人を支援することも、大きな力になるとおもいます。 お金がなくても時間がなくてもできる支援だと私は思います。 自ら被災地に行くことはできなくても、鹿児島にいながらできることのひとつです。 少額の支援金寄付でも何十人もの方が集まれば、大きな支援金になりますし、報告会に参加したり、活動団体の存在を友人知人やネットで広げることも力になるとおもいます。 できないならできないなりに、自分の範囲でできることをし続けていきたいです。(30代 女性)
昨年5月岩手県に親族がおり約一ヶ月ボランテャも兼ねて行って来ました。私の身内は山手でしたので難を逃れましたが、海岸線は見る影もない光景でした。親族の従兄弟達と人力でできる範囲内で後片付けに参加して6月上旬帰って来ました。人間のエイチを持ってしても自然の力には勝てない事を痛感しました。復興遅れの大きな原因に東電福島原子力発電所の被害が尾を引いていると思います。政府も復興省を立ち上げ地元行政と連携して計画を練り一日も早い復興を望んでますが、現場を見た者でないと分からないと思いますが、相当長くかかると考えます。今だ仮設住宅にお住まいの方々・工場等の立ち上げに頑張っておられる方々は身体に充分気をつけられ一日も早い復興ができますよう願っております。全国民も被災地の方々を思っています。政府を中心として復興計画を早く練り上げ災害に強い町作りが出来ますことを望んでます。
東日本大震災で、亡くなられた方へ御冥福をお祈り申しますと共に被災された方々へ、心よりお見舞い申し上げます、
大津波が、街を破壊し飲み込む光景に子どもたちが号泣する姿の映像を目にしたとき、とても胸が痛く張り裂けそうになりました。
私は、四歳になるまえ弟が生まれるため、ふるさと屋久島を離れて鹿児島市内に祖母とマンションにいました。晴れた昼下がり、突然下の階で爆発音と共に火災が発生。(鹿児島市呉服町、三越跡の立体駐車)
慌てて祖母の背中におぶられ気づけば、必死に非常階段を駆け下りていました。ガスと煙が現場を覆う中私は泣くしかありませんでした。下の階で爆発火災事故があったため逃げるのに必死でした。弟が産まれる前、母の看病から急遽市立病院から駆けつけた父とマンションの入り口近くで会い安堵感の反面、火災事故の悲惨さを3歳と11ヶ月で体感しました。 ぎっしり手には、幼稚園バスのミニカーを大事に持ってました。 忘れることができない、1984年9月頃です。
地震雷火事親父とあるように地震は、一番恐い災害。被災地の子どもたちは、私の想像を絶する恐怖と命を落としてしまった家族や友達など大切な仲間を亡くしてしまった悲しみは計り知れないと、心が痛み無念でなりません。私は、胎児性の突然変異により生きられても生後半年と言われた。生きられても、発達障がいが残るだろうと言われた。 片足が不自由ながら、霧島市の会社員として働いてます。震災を教訓に、改めて生かされていること、人と人の絆で支えられていることに感謝しなければと感じてます。
身体や知的精神、心の病や難病と向き合う子供たちへなにかできないか? 震災発生10ヶ月前、ふるさとをベースに手作り絵本を制作始めました。障がい児、難病と向き合う子供たちが自分らしく地域で、活躍出来るように明るく明日を生きる力。笑い助け合いながら、自分らしく過ごせられるように。
被災地の子どもたち、障がいや病と向き合う子供たちへ心の力になりたい。あなたは、一人じゃない、苦しいときも、悲しいときもそばにいるよ。互いの心を開き、絆をつなげたい。
生かされている命、被災地の障がいや病と向き合う子供たちへ、生きる力と、笑顔を届けるために、絵本を通じて励ましたい。 頑張らないで、ゆっくりゆっくり一緒に前へ歩こう。人との絆、を大切に。(30代 男性 霧島市)
東日本大震災から、間もなく1年経とうとしておりますが、あの日、あの時…誰が、あのような災害が起こることなど想像できたでしょうか?学校で津波に巻き込まれた小学生たち、スクールバスに乗ったまま津波に巻き込まれた園児たち、多くの被災地の皆さんの事を思うと、胸がつまり、涙が溢れてきます。あの日の朝も、「学校や幼稚園が終わったら、家に帰って来れる!」っと、なんの疑いもなく、出掛けたに違いありません。どんなに怖い思いをしただろう…『お父さん!お母さん!たすけて!』『おじいちゃん、おばあちゃん、助けて!』っと、どれだけ助けを求めただろう… そして、親御さんたちの お気持ちを お察しすると、言葉になりません。
まだ、安否確認が出来ていない方々がいらっしゃるのですね。一日も早く、ご家族のもとへ帰って来られますように、心からお祈り申し上げます。 私にも、小学生、中学生の子供がおります。 中学校は、海から、そう遠くはない場所にあります。もし、東日本大震災と同じような津波が来たら…っと、思うと心配でたまりません。毎朝、子供たちを見送る度に、今日も無事に帰って来られますように…っと、願わずにはいられません。(南さつま市 女性)
先日、久しぶりに岩手県の友人に連絡を取りました。 その中で強く訴えられたことが、日本全国で問題になっているガレキ処理問題です。 マスコミ等ではほとんど報じられませんが、岩手の地元では、他県にガレキを持って行かないで、長期間にわたって、地元で処理したいという方が、圧倒的に多いそうです。そうすれば、岩手の地元に多額の金が落ちて、それが、地元民の懐を潤し、復興のスピードも早まるとのことでした。確かに、金をできるだけ地元民に行き渡るようにする施策こそが、本当の復興支援だと思います。東北のことを思い、積極的に仕事を回そうではありませんか!
去年の3月11日のあの時、私は、家電量販店の店長で、金曜日、城山スズメを聴きながら、明日からの売り出しの準備と3時からの全店テレビ電話会議の準備をしていました。そしたら、関東の本部の回線が、不通になり、東北の店舗が、凄い揺れの後、不通になり、一大事だ!と思い、メーカーへ乾電池とラジオと懐中電灯の手配。しかし、一店長では、メーカーの増産までは出来ず、CEOに電話をして、直談判。そして、メーカーも増産に踏み切り、後は、マスコミが伝えた通りです。震災後、社員に献血と義援金を、お客様にも、義援金のお願いをして、去年の時点で、5億7千万円余りになりましたが、これからが、復興には必要だと思っています。今も、社員の献血と義援金は、継続中です。今は、毎月、東北3県の特産品をインターネットで、お取り寄せして、休憩時間に食べています。震災直後より、これからが、本当の支援が必要だと思います。一人のチカラは、小さくても、みんなで、力を合わせれば、この苦難も乗り切れると思っています。(鹿児島市 男性)
終戦を経験している私、小学五年生でした。今回の災害は「バクダン」よりひどい、戦争の時は安全な所にかくれ、夜は電球のかさに黒の布袋をかぶせ生活していました。今回の災害は平和な国の一部の場所に、地震、津波、逃げ場のない突然の運命としかいいようがない日本中から世界中の人々とお見舞の義援金、はげましの言葉、私共も町内会から義援金を集めて日赤を通し応援しました。一年たっても現地は言葉であらわす事も出来ない姿です。一日も早い復興を応援したいです。鹿児島でも同じ事がいつ起るかわからない事を常々自覚して、被災地の方々に、どのような協力が出来るか自治体で考えてもらい協力したいと思います。先日テレビで見ました。鹿児島の男女お二人、おのおのボランティア活躍なさるお姿、頭が下がります。健康に気を付けて、がんばって下さいと心で応援するだけです。私一人では何も出来ません。県市町村一団となって応援の方法を考えたい思いです。他県で、食堂の食券の一部が災害地への寄付金となっている仕組、色々の助けあいの方法があると思う事でした。私共も何かの企画に一人一人が自然体で助け合いに参加出来る事に協力したいと思いました。一番私が心配する事は、鹿児島にある川内発電所のことです。(70代 女性 鹿児島市)
東北の未曾有の大震災からやがて一年。大切な命、財産が一瞬にして失われました。またガレキは山積みされ今も残る被害の爪痕、広範囲の被害の大きさに、途方もない時間を要するでしょう。 先の国会では被災地の復興はほっとかれ、質疑応酬の場面にうんざりです。そして原発の事故に対しても東電の弱腰の態度、基礎的な対応のマニュアルが出来てない!深まる不信の連鎖、我が鹿児島県にも原子力発電所を抱えていて人事ではありません。今までエネルギー源について深く考えていませんでした。あって当然とどっぷり浸かっていた暮らしにいろいろ考えられさせる起点となりました。絶望的な状況で国、内外からの支援を有りがたいと思います。被害を二度と繰り返さない為の国造りが必要でしょう。(鹿児島市 女性)
あのいまわしい震災から早一年がたとうとしています。今年の冬は例年にない雪の多さに、仮設住宅での厳しい生活は年老いた方々はどんなに苦しい事だろうかと頭から離れません。私達家族も八・六水害で、丸裸になりました。私は仕事で闘病生活の主人が家に一人でいましたが近所のやさしい奥様に助けて頂いて心から感謝いたしました。命の恩人です。家族皆が助かったら、何もいらないと思いました。震災で大切な身内を失われた方々がどんな思いで、生かされていらっしゃるのかと心が痛みます。命の大切さは、何にも変えられません。厳しい冬が去り、春がやって来ます。災害にあわれた方々、少しずつでも、元気を取り戻してください。何も出来ませんが、震災の募金箱がある所にはほんのきもちをいれるように心がけています。(60代 女性 日置市)
あれから早いもので一年ですね。自分もあの日のことは良く覚えています。震災当日は、たまたま仕事が休みで家に居ました。車をちょうど乗り換えたばかりで、ウキウキで洗車したりして居ました。
そして3月11日、午後3時ちょっと前ですか、あまり覚えて居ませんが友達と出かける予定だったので段取りを早く済ませようとしてました。所が突然・・・強風とともに激しい揺れ・・・ビックリしました。ちょうどその時に母が買い物から帰って来たので、自分の車を放置し家の車を安全な所に移動し母に地震だよと伝え、近所の人と家の近所で待機しながら、友達、知り合い、姉などにすぐに安否確認の電話しましたが全然ダメした。おまけに、家の中もめちゃくちゃで停電。不安と同時に恐怖がありました。
それから何ヶ月か後に知り合いの友達でいわき市から避難をして来たと言う友達に巡り合いました。話しを聞きましたが可愛そうで仕方ない状態でした。友達はあの日仕事だったそうです。所が地震が起き会社の人と皆で逃げようと手をつなぎ合いながら津波から避難したそうです。しかし、友達の会社の何よりの友達が津波にのまれてしまったそうです・・・。友達も会社の友達を助けようと、絶対離さないよ、大丈夫だからっ頑張ってって話しを最後に・・・ 。気が付いた時には友達の友達は居なかったそうです。
可愛そうで俺は話しを聞いて居られませんでした・・・。けど、友達と知り合って何日かたった後に会社の友達が見付かったよ・・・友達に会って来るって連絡が来たから、お前が元気にならないと友達が心配するから私は大丈夫だよ、地元を離れたけど、元気だからねって伝えてやれば友達が喜ぶと思うよって言ってあげました。
本当に東北の皆さんには頑張ってもらいたいです。携帯のコミュニティーサイトにも知り合いの人で被災者の人が居ますが、早く元気になってもらいたいです。政府で、消費税を上げるとかって言って居ますが、消費税を上げる前に東北でいっぱい大変な思いをして居る人が居るんだからその人達を助けることが大切だと思います
東北・関東地方に知人・友人・親戚が多いために、あの日以来、人ごとでなく、完全に「自分のこと」になっています。
いろいろと思うことはありますが、今回は鹿児島に最も関係する「原子力発電所」について思うことを申し上げます。
鹿児島にある川内原発について、鹿児島の方は人ごとのように思われている方が多いと感じています。
政府が行う評価によって、再稼働に向けて政府が対応を行っています。
しかし評価を行う際の「前提条件」を外れる事態が起きれば、原発の特徴として「制御不能」になって、今回のように爆発します。
普通の機械であれば、直すことが可能です。
しかし、川内原発が爆発すると、東京以西は人が住めなくなり、国家としての日本は、無くなります。
「たかが電気ごとき」で、このような事態になる危険性がある機械を使い続けることを後世の日本民族に対して、皆さま、許せますか?
機械ですから、人間が机上でどんなに計算を行っても「壊れる恐れ」があります。
直ちに原発を停止し、十分な発電量を確保できる火力等の発電にして、電気料金が多少上がっても、生活の中で電気を使う量を少し減らして切り詰めて、後世の世代に日本の国土を引き継ぎたいと希望します。
このことが、今回の震災で「福島・東北・関東地方」の人が経験したことで明らかになり、非常に悔やまれます。 (40代 男性 霧島市)
3月11日、地震で、津波の報道で衝撃を受けた。ニュースで、原子力発電所という言葉を聞いた瞬間、背筋が凍りついた。
3月12日、海外の報道と、日本の報道の違いに混乱した。大本営発表・・関東・東北にいる親族や友人に連絡をとっても政府・大手マスコミの流す情報を信じこんで動いてくれない。インターネット上の情報を規制しようとし、不都合な真実は隠される日本は、戦争状態なんだと納得した。もう放射性物質の舞う郷里には、子供連れでは帰省できなくなった。
あれから一年。 一年たてば、放射能で汚染された食べ物は規制を受け、流通が徐々に減ってくるだろうという私の想定は甘かった。
「基準地以下」「食べて応援」という名の下、大手を振って流通している。中には「風評被害」の下、「産地偽装」してこっそり流通されているものもあるだろう。食べ物だけではない。中古車、タバコ、堆肥・・そして「絆」という名の下、瓦礫の広域処理。いろいろなルートで日本の端から端まで汚染されつづけるのだろう。
そして、瓦礫の広域処理・エンドレスな除染は「復興」という名の下にありながら、被災地以外の人間が儲ける仕組みもあるようだ。私には幼い子供がいる。なんとしても守らねばならない存在だが、この子の将来は明るいと思えない。寝顔を見るたび、申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
川内原発も人間がつくったもの。いつか壊れてしまうでしょう。もう手遅れかもしれなけど、ほんの少しでも将来に希望をもてるように、、廃炉にしないといけないと思う。 生活が少し不便になったとしても。今こそ、本当の知恵が問われている時だと思います。
もうすぐ東日本大震災から1年経とうとしていますが、被災者の方々のいろいろな復興が進んでいないように思えます。 『国は何をしているんだ。』と言いたいです。 早く被災者の方々が普段の生活が出来るように、被害のあった県にドンと予算を振り分けて欲しい。 国民から集めた義援金はどこにいったのでしょうか? 本当に被災した方々に届けられたのでしょうか?(50歳 薩摩川内市)
私は宮城県仙台出身です。現在父母は関西在住ですが、親戚はほぼ全員が宮城県福島県に在住です。 近親に亡くなった者はいませんが、南相馬の遠縁には行方不明の子どもたちもいます。 程度の差があれど、みんな被害を受けています。まだまだ復興には程遠い状態です。 でも北の人は文句を言ません。本当に大変なのにひたすら耐えてしまうのです。 震災から1年。 鹿児島から、それぞれの立場でのご支援を細く長く続けていただきたいです。そして、この日本に大変な状態にある場所と人々が存在することを忘れないでほしいと思います。深くお願いいたします。(鹿児島市 女性)
私は去年の3月11日を忘れられないです。私の叔母さんが福島にいます。今は原発事故の事で毎日のようにニュースで取り上げられていますが毎日心配で眠れない日があります。放射能がなければいいのですが放射能が出ているので毎日心配しています。
やはり自然に逆らう事とかしているから地球が悲鳴をあげていると思います!
地球(自然界)では、人間もただの生き物です
テレビで見る被災地の現状、瓦礫がなくなり少しづつ前進はしているのかな。
現地支援に行った際に目の当たりにした光景は今も目にやきついています。
そして、今見るテレビをとおしての現状は少しは進んでいると思います。復興がはかどらないのは、政治が国がと言われていますが、それも要因のとしてありますが、災害現場を見わたした限り平野部はすべて津波にあわれているのが現状で、津波の被害にあった場所に、また住宅、商店街を作るのかとなると、いかがなものかと。場所の選定とかが・・・少し行くと 土手や山なんです。難しいと思います。でも進まなきゃね。小さなことですが、コンビニとかで一円玉のお釣りは募金するようにしています。ひとつ気になるのは、自分の住んでるところで瓦礫処理するとなった時に、皆さんはどうするんだろうと思います。
本当に進まないのは、本当に国や政治の問題だけなんでしょうか。 生意気言ってすみません。    (霧島市 男性)
東日本大震災があってから、今月11日(日)で一年に成りますが、連日の報道でガレキの整理が5%しか進まない事に悲痛な思いをしている一人です、もう少し各県単位で分けあって処分を受け持つ事は出来ないものでしょうか、・絆・の言葉だけが一人歩きしている感じで残念です、対岸の火事では無い事を今一度日本国民として真剣に考えて見たいものです、被災された方々の大変なご苦労を思うとじっとしておれないんですが私一人の力では、どうしようもない事に歯がゆい気持ちです、御免なさいとしか言えないです、被災された方々の震災前の生活に一時も早く戻れる事をお祈り致します、・・・
漢字一文字の絆喉元過ぎれば熱さ忘れるでガレキの事他人事になっている現状寂しいですね。私達のできる事沢山ありますがそのなかの一つに放射能に汚染されていないのであれば少しでも受け入れる気持ち欲しいですね。政治家は自分達の事が忙しくあてにならないので国民が力合わせて今しなければいけないこと再度考える時にきているのではないのでしょうか?
東北地方の大震災が起こって、今、僕達私達に深い傷跡を残しました。あの映像を見るたびに悲しくなり涙が出ます。震災で、亡くなられた方行方不明になられた方々の為にも1日も早く復興して、今日よりも明日、去年より今年が良い日にして行って欲しいです。遠い鹿児島の枕崎市の僕に何も出来ないですが、東北地方の方々の復興復旧できる事を祈っております。
他人事でないことを、鹿児島県民全員が自覚せねばならない。
行政が取りかかるには多大な時間を要する。
各自がその時何が出来るかを、日々念頭に置き暮らすことが肝心である。
一年経つというのに いろんな事がはかどらず、テレビなどを見て 残念を通り越しています。
いろいろ事情があるでしょうが わがことと思って事に当たってほしいものです。
たいへんな不便な思いをしている人々を 税金や東電等でまず救ってあげていただきたいです。
収入や財産の多い人から順に税金として徴収し、どうしても足りない分を消費税を上げて資金にしていただきたいです。
せっかく助かった命が消えた人のことや、原子力の最前線で働いている人、心が痛みます。
今日の今を必死に生きている人たち、めげないでください。 祈っています。(姶良市 女性)
あの東北大震災が起こって、1年になろうとしております。震災に逢われた方々の時間はあのままだと思います。だけど、あの大震災に負けずに今まで、暮らして来たと思います。何も出来ず生意気な事を言っていることを御詫びして、頑張って下さい!
大地が震え、心が震えた・・あの日からはや一年。何も出来ないもどかしさ、やり場のない腹立たしさ、溢れ出る涙・・・皆様も様々な思いがあった事だと思います。まず、私達に出来る事を考えながら過ごした日々・・・本当に早いものです。今もなお続く震災被害、被害に遭われた方々への一日でも早い復興を心よりお祈り申上げます。
震災から、もうすぐ1年が経とうとしていますが、与野党の足の引っ張り合いや、同じ政党内での勢力争いばかりが目立ち、被災地・被災者を救う為の、党派を越えた協力姿勢が見えてきません 将来の為の税制改革や最低年金保障を話し合う事も大切だと思いますが、いま話し合うべきは、早急な震災からの復興策だと思います。(39歳 男性 霧島市)
人と人との繋がりが希薄になりつつある今の時代に「東日本大震災」がおこり、改めて人と人との繋がりが大切だと思いました。
そして、この災害で「人の思いやり、あたたかさ、強さ」も感じました。
被災地より遠く離れた場所に住んでいても「自分に出来ることはないか」と自分に出来る事を探す人の気持ちは、人としてすごく尊い事だと思います。
そして、その気持ちに答えるように被災地に人達も自分達に出来る事から始める。
そのお互いの気持ちが「絆」という言葉を生み出したのかもしれませんね。
「人はひとりでは弱い。でも、みんなで力を合わせると強くなれる」
きっと被災地も人があきらめない限り必ず復興すると思います。(40歳 男性 鹿児島市)
東日本大震災から1年経とうとしてますが、代々伝えて行かないといけません。
僕自身も阪神淡路大震災で震度7を揺れを経験しました。宝塚市にあった僕の実家は全壊しました。
あれから18年目に入った兵庫県はかつての姿に戻りつつありますが、まだ完全ではありません。
出来る事は募金位しか出来ませんがやって行きたいと思います。がんばろう東北!がんばろう復興地!
被災地から遠い、この九州。鹿児島。
被災地に行くことも、直接お手伝いする事も・・・できません・・・。
でも、頑張って一所懸命仕事をする。
会社や事業所が、地元を盛り上げ、利益を上げてもらうことで、被災地に、一円でも多くお金が行き届くように。
被災者の方々に、一円でも多く、義捐金が回っていきますように・・・。
被災地の、誰にも知られないけれど、そんな想いです。(いちき串木野市 女性)
震災地でボランティアする人を見ると頭が下がる思いです。
ボランティアするにはそれなりの経費と時間が必要ですが、大学生を持ち、独りで働く私にとっては、わかっていても手伝えない所があります。でも、こういう思いだけは忘れないようにして、子供にも伝えていきたいです。
毎日、私たちへ ニュースや話題を届けて下さり、ありがとうございます!
昨年の3月11日の事を思い返してみると、「報道」と云うもののありようを、つくづく考えさせられました。
震災の直後・・・テレビ・ラジオは、連日連夜 被災地の情報・津波映像や被災者の悲哀・死者の数。コマ―シャルは 公共放送。
一気に、日本国中 悲しみに暮れ、あぜんとするばかり。被災地にほど遠い私たちも、あまりの悲惨さに笑うことを拒否。
夜の街はひっそりとし・・・人は出歩かず・・・息をひそめた日々。。。
私たちは、[町づくりで、地域を元気にしよう!]と、集まった『いちき元気会』という団体です。
実はこの時、“観音ケ池 さくら祭り” を計画していて、準備中でもありました。
時は・・・3月28日(日)
こんなときに・・・やるべきか 止めるべきか??
「心が痛い」「気持ちが重い」「笑えない」 賛否両論。連日。賛否両論。決まりません。
ーしかしー 街中では、もうすでに “どこが先に店を閉める??”
そんな状況でした。
「さくら祭りをやろう!」「お店や業者さん達も元気にならなきゃ!」「このままじゃいかんど!!」「から元気でもいいよね!」
「義援金も集まらんが!!」って!! でも、やはり・・・まだ後ろ髪ひかれる気持ち。。
たんぽぽ倶楽部の、宮原悦子さんに、FAXを送りました・・・。
宮原さんは、早速、この祭りを取り上げて下さいました。
ラジオから、流れる宮原さんの、さくら祭りの決断をした私たちを、励まして下さったメッセージ。
涙が・・・でました!!
宮原さんに、救われた。ホントに、『人は人に救われる』んですよね!!!
MBCの方々が、報道で、ラジオ放送で、パーソナリティのメッセージで・・・世の中を明るい方向へ誘って下さった。
そう、思っています。心から・・・感謝。これからも、たくさんの人に、チカラを下さいね!!
私たちも! これからも頑張って、自分の出来ることに最善を尽くして元気に生きる!!(いちき串木野市 女性)
未曾有の大震災から1年。被災者の方々には長い1年だった事と思います。
誰もが予想しなかった惨事に愕然としました。あの現状から皆さん頑張ってこられました。強いですよね。
起こってしまった出来事を忘れる事は出来ません。でも前を向いて突き進むしかないから…
復興の日々は続き、時間はかかると思います。必ず明るい明日がやってくると信じて乗りきって欲しいです。国民が一つになれば大丈夫と信じています。この震災を教訓に我が鹿児島も災害に備えて日々生活しておきたいと思います。いつどこで起きてもおかしくない日本列島だから、ひとつになるのです。
衝撃的なニュースが目に飛び込んで来た、昨年の3月11日!始めは映画かなと疑いました…
しかし、現実で、映画なら…に変わりました。13年程前に、長距離トラックで、今は亡き母を助手席に乗せ、宮城の港から帰り荷を積み、土産に笹かまを沢山買って、素晴らしい景色を見ながら走った事を思い出し、犠牲になった方たちや、今もなお、復興に向け、耐え苦しみ頑張り続けている方たちの事を思うと涙が止まりません…。
被災された方たちは、もう頑張らなくていいです。回りの元気な私たちが、一人一人、気合いを入れ、自分に出来る事を頑張り続けていきます…1日も早い復興を祈ります!(阿久根市 男性)
「もしも、我が家がこんなふうになったらどこに逃げようか?」
震災のテレビ放送が流れるたび、家族で何度思っただろうか?本当に避難が出来るかと・・・
私が住むいちき串木野市は、近くに海があり津波の心配や、地下石油備蓄が津波の影響で我が家が火災にならないか、原発が爆発をしないかと不安なことばかりだ。
さらに不安なことは、震災から数ヵ月後いちき串木野市が作成をした防災・津波避難マップが、お年寄りにとって分かり辛い小さな文字・地図だったことだ。それに、津波がおきた避難場所が海に近い山や公園で、本当に安全なのだろうかとますます不安になった。
今我が家では、いらなくなったボストンバックに避難道具を詰めたり食料を買い揃えている。もしものために・・・
みんなの笑顔が取り戻せる明日が来ることを、願いたい。 (26歳 女性)
復興への道を歩み始めているとはいえ、東北のニュースはまだまだ厳しいものばかりです。
3月11日のあの時間を迎えるのが怖い…正直な気持ちです。
遠く鹿児島から何が応援できるのか分かりませんが、震災以来「大切なものは何か」ということをよく考えるようになりました。
私の暮らしの中で変わったこと…それは家族や町内のコミュニケーションなど、地域コミュニティがとても貴重なものに思えるようになりました。なんとなく暮らしていた自分にとって「本当の幸せ」や「本当の豊かさ」を考えるターニングポイントと なったような気がします。この鹿児島で暮らすことの良さをかみしめるようにもなりました。
まだまだ東京中心の日本ですが、地域にも新たな眼が注がれつつあるのではないでしょうか。それは「経済市場」的な眼で見るのではなく、「人と人のつながり」「人と自然との関わり方」から地方をみると、少子高齢化、過疎など課題はありますが、地方の暮らしは、人間的な未来の暮らしのヒントになるようにも思います。
東北の早く復興することを祈って、私も支援したいと思います。 (50歳 男性 鹿児島市)
壊れたり壊すのは一瞬だが築き上げるのには時間が掛かる、なので一瞬一瞬を大切にしたい